(元)三留女子大生の毎日

しごと、たべもの、すきなこと。

母方の曾祖母が103歳で亡くなった話

 

の勢いで書きます。忘れてしまいたくないので。

曾祖母は細面の上品な人で、若い時はとても美人だったと聞きました。「ありがとう」が口癖の感謝の人でした。会わない間にすっかり老いて、95歳でペースメーカーを入れ、100歳を超えてからはいよいよ起き上がることも難しくなりました。私が一緒に暮らし始めたときは、もう一日の大半をベッドで過ごしていました。それでも感謝の言葉を忘れない人でした。

 

9月のある木曜日のことでした。残暑というにはまだ暑すぎる日でした。私はいつものように朝食を食べて家を出ました。曾祖母は火曜日からショートステイに行っており、家にいませんでした。翌週の月曜日に帰ってくると祖母から聞かされていました。火曜日は私の仕事が休みで、朝風呂に入ったので、ショートステイに行く曾祖母を2階の部屋から見送った気がします。

仕事はおそらく滞りなく終わり、私はいつものように定時で帰宅しました。家の近くまで来たとき、見慣れない車がガレージの前に止まっていて、いつもは閉まっている玄関が開いています。普段はカーテンも締め切られている仏間の、庭に面した引き戸が大きく開いていました。誰が来ているのだろう、「ただいま」と言いながら家に入った私を出迎えてくれたのは、祖父のきょうだいでした。なんでここに、という疑問はすぐに解けました。

「おおきいばあちゃんがなあー、亡くなってもうてなあ」

その言葉を聞いたとき、私は足の力が抜けて玄関先にへたり込んで、声をあげて泣きました。よく見れば、見知らぬ人が家の中にたくさんいました(後で聞いたのですが、隣保の葬儀班長さんと、葬儀屋さんでした)。でもそんなのは気になりませんでした。

つい二日前まで元気で、私が作ったものを「ありがとう、ありがとう」と言いながら食べてくれたのに。わたしが毎朝「行ってきます」というと、にっこり笑って細いしわくちゃの手を振ってくれていたのに。認知症が進んでもう孫の顔もわからなかったけど、祖母と、ひ孫の私の顔だけは忘れないでいてくれたのに。

私は父方の祖父を二人ともすでに亡くしていましたし、父方の曾祖母も亡くしていました。でも、亡くなった当時一緒に暮らしていたわけではなかったので、「生活からその人が消えた」わけではなかったのです。母方の曾祖母は違いました。たった5か月とはいえ、一緒に暮らしていたのです。仕事に行く私を見送ってくれていたのです。介護に勤しむ祖母を見てきたのです。一緒に食事もしたし、テレビも見ていました。一緒に暮らしていた人が、ある日突然いなくなったのです。103歳という年齢もあり、いつかその日が来るだろうとは思っていましたが、思うのと、覚悟を決めるのとではわけが違います。いつもの1週間のショートステイで、来週の月曜日に帰ってくるのだと、祖母から聞いていました。

曾祖母が死んだのは、ショートステイに行って3日目のことでした。帰ってくるには、早すぎました。

 

動揺が収まらないまま、なぜ亡くなったかを尋ねました。死因は「大動脈解離」という聞いたことのない症状でしたが、調べてみると、曾祖母の体ではどうしたって打つ手のないものでした。朝食後に急に意識がなくなり、病院に運ばれて、総診断されたとのことでした。親族がみんな病院に集まって容体を見守ったものの、脈はある。よく調べてみたら、脈だと思っていたのはペースメーカーが動いていたからで、本人の心臓はもうとっくに動くのをやめていたそうです。そこで、ようやくペースメーカーが止められ、死亡の診断が下されたのです。もはや悲しさよりもやりきれなさがこみ上げてきました。うまく言えないけれど、もう命は失われてしまったのに、たった一つの機械によって縛り付けられていたのです。医者はそんなこともわからないのかと、素人ながらにもどかしかったのだと思います。

母親に連絡しましたが電話がつながらなかったので、LINEをしておいて父親に電話しました。仕事中だった父は、「仕事が済んだら行く、母さんにも言っておく」と言ってくれました。

そのあと、曾祖母と対面しました。細くて華奢な手はドライアイスで冷え切っていて、大動脈解離の影響か青黒く変色していました。同時に、曾祖母にとって致命的だったことを悟りました。大動脈解離はそれなりの痛みを伴うものだと知って、痛かったんかなあ、しんどかったんかなあ、苦労してきた人やからせめて最後くらい眠るように終われへんかったんやろか。曾祖母はきっと痛みに苦しみながら、声すら出せずに意識を失ったのでしょう。誰かが気づいたときには手遅れだったのかもしれません。いろいろ考えていたらどうしようもなくて、後ろで葬儀の打ち合わせが行われている中、声を殺して泣きました。

 

翌日、納棺が行われました。私も手伝って、数珠を持たせたり、足袋をはかせたりしました。地元のセレモニーホールでお通夜もお葬式も行われることになっていたので、棺に入れられた曾祖母はそのまま運ばれて行きました。お通夜も、お葬式も、祖父のきょうだいの、仕切りたがりのくせに段取りの悪い人にイライラしていたら終わりました。笑

 

お棺にお花を入れる時が、お葬式の一番つらい瞬間です。この時間が終わってしまうと、故人は火葬場に送られてしまいます。切られた花を、お棺の中いっぱいに敷き詰めました。曾祖母は痩せて小さくなっていたので、いくらでもお花が入りました。前日に書いた手紙も入れました。涙で前が見えなくなるくらい泣いて、最後に残った白い花を顔の横に添えたら、蓋が閉められました。

焼かれた後には、驚くほどきれいな喉仏と、ペースメーカーと、人工関節と、ぱさぱさになった骨が残っていました。

そうして、曾祖母は「ご先祖様」になりました。祖母と私の生活から、曾祖母がいなくなりました。

 

 

半年たった今、そんな生活にも慣れました。祖母は曾祖母が寝ていた部屋にベッドを置いて生活しています。ずっと部屋に置いてあった曾祖母の服や鏡台も倉庫に片付けました。そのとき見つけた本つげの櫛を譲り受けて使っています。祖母は手鏡を自分で使うことにしたそうです。

 

103歳で亡くなったので、いずれは来るものと皆がどこか覚悟して、あるいはそう思っていました。私もそうでしたから、比較的早く立ち直れました。というより、お客様が来るたびにお茶を出したり、あれこれ手伝っていろいろ動かなくてはならないと気を張っていたので、悲しみに浸る暇もなかったのだと思います。

曾祖母にはもっと長生きしてほしかったです。今でも遺影の中でにっこり笑っているのを見ると、あの日もっと早く誰かが気付いていたらとか、お医者さんがそれまでにちゃんとなにか薬を出してくれていたらとか思ってしまいます。


ただ、それが曾祖母にとって最善の生き方だったのかと問われたときは、わからないと言うほかありません。